2013.08.30 (Fri)
Opened Mic (Featured Akinori Towma)
動画は、石川県の能登半島で創作活動を行っているアーティスト、東間章記さんの作品。掲載希望とのことでメールをいただきました。
「人智を超えたもの」に興味があると仰る東間さんの作品は、雷や日射熱、雨や雪といった自然現象を絵筆とし、描かれています。作品のコンセプトは「自然の意思と人間の意志をキャンバスに刻みつける」。
つまりはご本人も仰るよう、シュールレアリズムでブルトンが行った自動筆記(そういえば学生時代、ダダからシュールへの流れでブルトンの伝記を読み、自動筆記に随分とはまりました。もっとも応用性のないわたしはその意味を浅薄にも内観と捉えることしかできませんでした)の課程を自然現象にゆだねてみた作品群です。なかでも雷を絵筆にした作品は中部大学とのコラボで、実際に稲妻をキャンバスに呼び込んだものだそうです。
美大を卒業後、主にNYをベースに個展を開かれている東間さん。応援しています。どうぞその迸る才能で、わたしたちをもっともっとおどろかせてくださいね。
http://akinoritowma.com/index.html (東間さんの公式サイト)
さて週末、フリートークの時間です。どちらさまもお気軽に参加くださいね。
Tags : Salon | Opened_Mic | Art |
これ、今世紀の常識
なんてよくテレビの夕方のニュースで特集やってますが
それを人工的に作っちゃったり、利用する人間もまたすごいと思うんです
例えばこの彼、東間章記さんの様にアートとして利用するなんてね
こういうのを見てると「何処からこんな発想が思いつくんだろうなー」とつくづく思います
自分には到底できません
出来るとするならば雷が鳴ったらなるべく電化製品を触らない事でしょうか
私には 稲妻でヤキソバつくりました
ぐらいの発想しかありません
心が動かない。理由はわからんちん。
「てやんでぇ! お前らみたいなど素人に、うちのラーメンの味がわかってたまるか!」
「だって、そのラーメンを食べるのはど素人じゃない」
と言うシーンがあったのを思い出す。
「何を写してるの?」と言われる被写体が多い。
汚れた部分、壊れた部分、錆びた部分などが写っているからだ。
「物」はどうやって傷むのか知るためだ。
傷む過程や原因を知ると、それを防ぐにはどうしたらいいか参考になるからだ。
材質を検討したり、塗装を検討する資料になるからだ。
そのうち、本にでもしたい。
ただ、写真に残せない傷みがある。
心の傷みだ。
この痛みへの対応が非常に難しい。
行方不明だった女子中学生が死体で見つかった。
娘を持つ親として、心が痛い。非常に痛い。
あれからまた「祈り」について考え続けている。
テーマは「祈りは無駄か」。
結論が出そうだ。
祈りは無駄だ。
祈る暇があったら考え行動せよ。
どうもそこに収束するようだ。
祈って犯罪が減るならいくらでも祈ってやる。
やがて私の時代が来る。
祈りは無駄。そのうち、本にでもしたい。
でもネタも入れたくて、
オチが見つからない。
残念ながら今年のボディペインティングは不参加のタナトスchanDeath・・・
それが出来るヤツはモノスゴク稀少なんだと思う。
この方の作品はある現象を別の角度から捉える(保存する)と言う事への挑戦なんだなと。
写真は視覚を残し、録音は音を残す。動画はその両方を劣化しながらもある視点から残す。
雪のキャンバスは雪が降ると言う事を絵の具の滲みとして残したわけだが、それじゃキャンバスだけを見たら何かを再現できるかというとコレが難しい。過程の動画込みの作品なんだな。
「なごり雪」という歌はその歌を聞く事で過去をの感情を再現する。
何を記録して再現するのかという。ソコがたぶん芸術の難しい所なんだろうと思った。
数式もまた同じで。ワタシ自身はハクション大魔王並みに数字に弱いが。現象をどう広範囲な変数に対して単純化出来るかが難しい。
お前写真ヘタクソじゃねえかw
何言ってんだw
ワロスw
と、写真をあげていないものが煽っております(藁
人を落とす前に、自分をあげたほうがいいんじゃない?
誰かの足を引っ張ってpgrするより、
自分を磨いた方がwktk。
あなたが好きそうな2ちゃんのネットスラング使ってみたw
例年より暑いせいかな?
二つ上にもコバエが・・・(爆)
チキータさん
今年は参加できなかった。
ネタは考えていましたが、やるべきことが多すぎて。
申し訳ありません。誘い水すらできなかった。
(今月ならよかった・・・とつぶやく)
口裂け女(先にヘブンに出てきた)
へそ踊り(夫に拒まれた・・)
裸は使い物にならんし・・難しいですね、アイディア不足か・・まぁ絵心もなしときた・・。
近頃のデジカメはホント良く写るよね。
だいぶ前にニコノスにリバーサルフィルム入れてイルカの写真撮っていたけど、
最近オリンパスのコンデジで撮ったイルカの写真と大差ない。
機材や腕よりもセンスの時代なんだなとしみじみ思うょ。
東間章記さんの作品、動画・ホームページとも拝見しました。
ここの記事中に書かれたコンセプト通りの作品たちで、自然現象の手を借りて仕上げる行程には驚かされました。
私はとくに、雪の降り始めに仕込んで雪解けを待って完成した絵に感動しました。
ただ、好みの話をすると、好きなタイプの芸術ではありません。
意図しないで人の手が加わった時または生活の中で互いが共存しながら長い時を経た場合に、偶然芸術が生まれるというのは大いにあると思いますし(たとえば農村風景など)、自然庭園のように人間が作り出すミニチュアの自然も美しいと思います。
でも、現代アートにみられるような、自然の中に明らかな人の手を加えた時の違和感を、アートとして捉える感覚は私にはなく、ただ異物と感じてしまうのです。
なんだろう、自然との「調和」は好きだけれど自然を「利用」とか「対峙」「競合」などは好きじゃないということでしょうか。
「人知を超えたもの」への興味の中には決して畏怖を忘れてはいけないというのが、私の考えです。
…なんて偉そうに言いましたが、そもそも私はシュルレアリスムが苦手でした;;;
(中には好きなものもあるのですが…ダリとか。)
「考え行動」し、人事を尽くした後にするのが祈りじゃないでしょうか。
または、人知の及ばぬ領域に対してなされるもの。
人間が逆立ちしたってどうこうできないことにたいして、なされることが多いものです。
一方で、祈りは、行動の原動力でもあります。
まず祈ること。
それに触れた人が同じことを祈り、それを知った人がまた祈り、大きな行動が生まれることもあります。
この辺は、日本古来の言霊という考えに基づくものです。
被災地域にいち早く飛んで行って、被災者のために働く人たちの心に、祈りはないと思いますか。
がれきを掘り起こしながら、ひとつでも多くの命が救われることを祈らぬ人はいないでしょう。
無駄うんぬん以前に、行動の根源に、祈りがあるはずです。
たしかに祈るという行動そのものに、物質的な実利はないでしょう。
でも、たとえば身内を亡くされて悲しみの中にある人に、あるいは自身が死の床にある人に、祈りの言葉はどれほどの力をもたらすか、それは数字や文字では表せないものの、計り知れないものであることは、言わずもがなです。
「祈りは無駄」という本を出版されたら教えてください。
図書館で借りて読んでみます。
祈りはやはり不可欠、というか祈りのない人間社会は存在しないことを再認識するために。
購入はしませんよ。お金が無駄だから。
願いは叶えるもの
祈りは運や天や神に頼ること・・・非現実的
願いは自身や実在する何かに実現を託すこと・・・現実的
無事を祈る、犯人逮捕を祈る・・・神頼み、幸運を期待
無事を願う、犯人逮捕を願う・・・自身の考え、実現への欲求
いくら祈っても運や天や神は災害を止めてはくれないし、
戦争は無くしてくれないし、犯罪も減らしてくれない。
現実的に何も変わらないのはとても空しい
→効果が現れない(祈りを捧げるという行為)は無駄。
天に祈る暇があったら願いを叶えるための行動に移しましょう。
病はどんな人にも平等に訪れる、memento mori(常に死を思え)毎日を一所懸命に正しく過すことが大切だと考えさせられました。
死の淵を知れば知るほど自分が自然の風になびく白布のような気持ちになります。
なぜに「願い」という言葉を持ってきたのでしょう。
吊さんも私も願うという言葉には言及していません。
「祈り」と「願い」を言語学的あるいは宗教学的に分析すれば、それこそ本一冊出せるくらいの解釈があります。
たとえば、そもそも「願う」も本来は神仏に向けてなされるもの。
山田さんの解釈もまたひとつだし、「祈る」を利他的、「願う」を利己的という解釈もできるし、逆に「祈る」は強い願いを行為として示す「行動」であり「願う」は自己の心の内にある強い欲求の域を出ないという解釈もあります。
しかし、その解釈一つ一つの是非を問うのはナンセンスなので、ここでは割愛したいです。
ひとつだけ言えるのは、「願う」と「願いをかなえるために行動する」ことは同義ではありません。
「願う」ことは必ずしも行動を伴うとは限らず、単に望みを請い求める自己の欲求にすぎません。
で。
願うという単語を出してきた以外は、吊さんのコメントと変わらないので、それに対する反論もまた、同じものにしかなり得ません。
つまりこれ以上は水掛け論にしかならないのだろうと思います。
繰り返しになりますが、「考え行動」し、人事を尽くした上で、自分の力及ばぬ部分を見えない力に請い求めることが「祈る」ことだと思っています。
つまり、神仏あるいは人知の及ばぬ力を信じる者にとっては、「祈る」ことには精神的安定を得たり、他者との精神的連携を取ったりするという意味があり、その力を信じない者にとっては意味がないのでしょう。
この両者には、根本的な信念の相違があるので、この先は平行線をたどるばかりと思います。
私は、吊さんや山田さんの言う「行動を起こしなさい」という点では賛同しますが、祈りを否定はしません。
無意味とも思いません。
「まず行動しなさい。それでも不安なら祈りなさい。」なら、諸手を挙げて大賛成。
たとえば黙祷は、祈りの表現のひとつですが、その姿が周囲の人心に与える影響は否定できないことでしょう。
「祈り」は、自己の欲求というよりは、利他的または普遍的な幸せを強く望む要素が強いからこそ、他者との連携が容易で、またその精神的な連携がもたらす行動への動機は大きなものになるのでしょう。
ただ、これさえも、祈りに意味を見いだせない人にとっては無駄なことに映るのかな。
平和を祈る人の姿を美しいと感じるのは、私が祈りを肯定しているからで、祈りを無駄と思っている人には胸糞悪く映るのかなぁ、と思うと、非常に不思議な気持ちです。
祈りは戦争を終わらせられないし、犯罪も減らせない。
でも、人間の力では戦争も犯罪もなくせない。
だから、無駄と言われても、人間は祈り続けると思う。
人それぞれ。
「無駄」と断じることは、それを大切に思っている人の心を傷つけることだということを考慮したうえで、発言してほしいものです。
私は、人を傷つけることが容易に予想できる言葉を、不特定多数の人間に発信する行為を、どうしても許せないのです。
区別が難しいからです。
私が祈りを嫌うのは、宗教を嫌っているからです。
宗教はビジネスです。
どんな大義を掲げても、結局は金か権力と言った利権目当てです。
心の弱さに付け込んだり、希望を持たせて搾取するやり方が
気に入りません。
ゴルフで、数m先のホールにパットし「行けー!入れっ!」と望みます。
これも言うなら祈りです。
こういうのは極自然な人間の行為です。
考えてみると、そんな祈りだって無駄なこと。
やるだけやったらあとは待つだけ。
受験だって、祈る暇があったら勉強するか寝て休め。
とにかく、今後一切私は祈らない。行動あるのみ。
どんな工程表にも、祈りの工程はない。
結果をだすために祈りは無駄だからだ。
吊さんにとって、祈りは無駄なのはよーくわかります。
そういうコメントなら、私もここまで時間をかけて反論はしなかったでしょう。
どうぞ。
今後祈りのない人生をお過ごしください。
なくてもなんら生きていくうえで支障のないことですから。
ただ、人が祈ることを否定しないほうがいい。
信仰や祈りが必要な人もいるということを、理解できたら、より豊かな人生になることでしょう。
宗教はビジネスですが、信仰は利益とは切り離された、素っ裸の心の作用です。
祈りと願いというキーワードが浮かんできて、
僕なりの解釈と話題を膨らませるために祈りと願いの違い
を書いてみました。特に極楽パンダさんに押しつけるものではありません。
むしろ、僕は吊さんのレスを待っていました。
以前、ズ●センは性行為か排泄行為かと言うネタに
お互いに与太話と認識しつつ、議論したことがあるのですが
そのときの空気感が再現できたらなあと期待しながら待っていたら
ちゃんと反応してもらえました。
アンチが多い吊りさんですが、ちゃんと読み込んで
よく考えたレスにはそれなりの反応をするところが彼の良いところだと思います。
中途半端な理解度ではそれこそ彼の言う手抜き工事の
レスしかもらえませんから。
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吊さんの超合理的なものの考え方には大変興味があります。
エンジニアというか、クラフツマンにはそういう人が多いんですかねw
将来、娘さんがご出産の時も天の神様にお祈りしちゃダメですよ (^m^)
娘の出産でも絶対に祈ったりなんかしません(笑)。。
あと30年くらいしかない人生、祈ってる時間的余裕などありません。
受動喫煙や食材の安全性や放射線被爆など、母体を全力で守ってあげることに注力します。
とりあえず私の健全なDNAを受け継いでいますから、そう心配はしていませんしね。
これだけ急速に人間を取り巻く環境が変化しても、人間の思考パターンに変化がない
のはおかしいと思うのです。
祈ったところで何の解決にもならないことを全く学習していない。
「健闘を祈る」、「遺憾の意」、「何かあったらご連絡ください」、「日本人のクリスマス」・・・
なんとくだらないことの多いことか。
考えることから逃げている人が多いと感じる。
現代人は一皮むけるべき。21世紀だって言うのに。
あの頃 夢描いた未来に 今生きていると言うのに。
閲覧、コメントありがとうございます。
Heaven様に
作品を掲載して頂いた東間章記です。
自分でも気づかない所もあり
肯定的な意見、厳しいお言葉、
共に皆様の率直な意見が聞けて本当にありがたいことです。
この場をおかりしてお礼申し上げます。
まず堅いお話からさせて頂きますと
自分自身は表現主義、アースワーク、もの派、ミニマルアート、
コンセプチュアルアート、シュルレアリズム(オートマティズム)、アルテポーヴェラ等の
作家や作品に強く影響を受けており、それらを自分の中で噛み砕いて
自分の表現の中に組み込んでいます。
私自身の美術史的解釈ですが
例えばもの派等の理論でいえば、
作家の表現を無くし、
何も手を加えず雷や雨の痕跡をそのまま支持体(キャンバス等)に
残るような仕掛けを作ってやればいいと思うのですが
この作品は作家の表現性と自然の痕跡(自然性)が同時に混在しています。
この作品達は「Fusion」と命名しているのですが
Fusionとは日本語で融合を意味します。
そこには一見矛盾する2つの表現がキャンバス上で刻まれます。
自然による絵筆はある程度は予測したりコントロールしたりすることはできますが
やはり自然が相手なので100%思うようにはいきません。
そのありようも作品の一部として捉えています。
と建前はここまでとして
この作品だけでなく自分のすべての作品に言えることだと思うのですが
「なぜ人(生物)は生きて死んでいくのか、生の営みにはどんな意味があるのか、
なぜ自分は人間として生きているのか」
そんな中学2年生みたいな青臭い疑問が自分の制作の根底にあるのではと思います。
でも自分は死ぬまで人間をやめることはできません。
Fusionの作品は自然界には存在しない
人間の象徴であるような四角いキャンバスというものに自分を描き、
自然の絵筆を使うことによりそんな疑問や人間としての自分から解き放たれたい
という欲求があったのかもしれません。
自然の現象で自分の思いどうりに絵が変化しない様も、
様々な外的要因で変化していく人間の人生みたいだなと思うこともあります。
なのでこれは私自身、絵だけでなく絵が生まれるというプロセスも
作品の一部と捉えています。
今世界の中心は人間ですが
将来、私達の子孫が宇宙の外に旅立つ時がきたとき
生物、そして生と死の定義が大きく変わるときがくるかもしれません。
Fusionの作品には自然現象を一つの生物(絵描き)として
捉える意味も持っています。
たぶん人それぞれ様々な捉え方があるかと
思いますが作者である私はこのようなテーマで作品を造っていたりします。
最後に閲覧して下さった皆様、掲載して下さったHeaven様、
本当にありがとうございます。
この作品を通して少しでも
なにか心に引っかかるものがあれば
作者としてとてもうれしく思います。
長文最後までお読み頂きありがとうございました。
東間章記
自制心のないデブがえらそうな講釈たれんな。
デブの言うことに説得力なんか無いんだよ。
偉そうなこと言う前に痩せろ。
脂肪は分厚いくせに言ってる事は薄っぺらいんだよ。
ほんとにそんな為に作品作ってんだろうか。
掲載希望というワードから色んなこと想像してしまいました。
有名。名声。ビジネス。戦略。
人間としての自分から解き放たれたい ?
それが作品づくりの原動力ならばそこに第三者は必要なのだろうか?
ひとりで勝手に作品を作って、ひとりで眺めるだけでは満足できるのだろうか?
誉める人も居ない無人島にたどり着いても作品はつくるのだろうか?
オナニーしたいのか共有したいのか。
見て欲しいオナニーなのか。
ご丁寧なごあいさつをありがとうございます。
ホームページを作る作家は多いですが、人の訪れを待つ受動的な姿勢でなく、この毒も刃も持つHEAVENに掲載を希望する積極性は、素晴らしいと思います。
シュルレアリスムもオートマティスムも私には難解で、それらの作品をあまり好まないのですが、東間さんの、作品への生々しい思いを伺った後、改めて作品を観てみると、ずいぶん印象が変わりました。
打ち合わせをしたり、互いに芸術論について熱く語り理解しあったりできない自然を相棒として、共作することの意義が、少しだけれどわかった気がします。
思うようにいかなかったり、逆に予想外に素晴らしい作品になったり、そうした結果としての作品だけでなく、過程も含めて人生になぞらえるお考えも、理解できました。
思うに、画像や映像に記録されたものをパソコン画面で見るだけでは、残念ながら私には、おっしゃるすべてを感じ取ることが出来ないようです。
本物の作品を生でこの目で見たら、きっともっと感じるものがあると思うのです。
昔、TVや紙媒体で何度も目にして、よく知っていたはずのゴッホの「星月夜」の原画を見た時に、その絵の持つ…なんだろう、絵からにじみ出る言い知れない迫力に圧倒されて、呼吸をするのも忘れるほどに釘付けになった経験があります。
水木しげるさんの原画を見た時にも、言葉を失うほどの…なにかを感じてしばし見入ってしまったものです。
あの、名作が持つあの力って、いったい何なのでしょうね。
今は、映像や写真に撮ったものが完成形となる作品はとても多いです。
もちろん、作家さんはカメラのフレームを作品の一つとして考えて作られているのだと思うのですが、見るものを圧倒するような感動は、やっぱり生で見る方がいいんじゃないかなーと、古風な私は思うのです。
そんなわけなので、いつか東間さんの作品を、直接見に行きたいなと思いました。
シュルレアリスムを解さない私でも、震えるような感動を覚える作品を、期待していますね!
吊さんの好きなところ、たくさんあります。
寒いギャグ飛ばして悦に入っているところとか、娘さんのこととなると親バカ全開になるところとか、普段紳士ぶっているのにときどきエロじじいになるところとか、好きなこと語らせると周りが見えなくなるところとか、正義感の強いところとか、礼儀正しいところとか、どう見ても、憎めない親父そのものじゃありませんか。
でもときどき、吊さんのコメントに、自分が言われたことじゃなくてもカチンときたりムカッときたりするのはどうしてかなーと、考えてみたら、夫婦喧嘩にそっくりなんですねー。
私が、夫に対して許せんと思うところと同じポイントです。
超合理主義とか、祈りは無駄とか、ああああ、いかにも私の夫が言いそう!
その時の夫の、自分だけが正しくてお前は何もわかっていないと言わんばかりのあのツラを思い出すと、ムキー!
だいたい、無駄は嫌いとか言いながら、その無数のコードとか電動工具とか紐とかロープとか壊れた家電とか、自分の周りは無駄なものだらけだろうが!←きっと吊さんもそうだと思っている。
…で、つい大人げなくもつっかかってしまうのです。
吊さんが(夫が)無駄だと言い切るもののほとんどは、私とっては大切な、価値あるものです。
昔、仕事上で多くの経営コンサルタントと付き合いがあったのですが、彼らも吊さんと同じように、ムダムリムラが大嫌いで、効率化だのスリム化だの合理化だのグローバリゼーションだの、そんなものばかり崇拝していました。
若かった私も、そんな彼らを尊敬していた時期もありました。
でも、今の私には、その時無駄だと言われていたものすべてがいとおしく、大切に感じているのです。
これは思うに、男脳と女脳の差です。
男脳の人(生物学上の男ではないことに注意)にとって無駄なものは、女脳の人(生物学上の女ではない)にとって大切で、男脳の人が大切にしているものは、女脳の人には無駄にしか見えないのです。
理解し合うことは不可能。
不毛だけれど、だから、男脳と女脳(生物学上の…以下略)は永遠に惹かれあうものなのです。
…いや、別に吊さんには惹かれてませんから。
あれ?
以前、同じようなコメントしましたっけ?
してたらすみません。
最近忘れっぽくて…
コメントありがとうございます。
たしかに仰る通りまったくそういう感情がないわけではありません。
ただ、有名になりたい、名声がほしい、お金持ちになりたいという
気持ちを純粋に追求しそれを表現に昇華していたとしたら
このような作品を造っていなかったと思います。
自分で言うのもなんですが、
この作品は流行りの感じはないし、わかりにくいし、まわりくどいし、
正直とっつきにくい作品であるかと思います。
ただ色々な考え方があるかと思いますが、
私自身は、
作品は人に目に触れることで完成するものと思っています。
自分はこうだと思っていても観てくれた人達の言動だとか
反応で自分では気がつかない自分がいたりするのです。
制作して発表するということは私自身にとってコミュニケーションの手段であると同士に
自分自身について考えることが出来る方法でもあります。
作品が色々な人の目に触れるようにするための努力は作品を通して
自分を知る意味でも重要ですし、いろんな可能性を示唆してくれます。
そういう意味ではここに載せて頂いたことも
こういったコミュニケーションを
通し自分自身をみつめ, 可能性を広げる
とてもいい経験だと思っています。
>極楽パンダ | 157618 | さん
コメントありがとうございます。
そうですね。自分の感じていることを伝えるには私もまだまだ
努力が足りないのだと思います。
それは実際の作品を観に来てくださった方々にも指摘されることなので
やっぱりまだまだなのだと思います。
ちなみにゴッホは私も大好きな画家です。
そして感動といっても
色々な種類があるかと思います。
例えば僕の周りではあまり好かれてはいませんが
大学時代にピエロ・マンゾーニという芸術家の
「芸術家の糞」と題された自分の排泄物を
缶詰めにし、同じ量の金の相場で売ったという作品(パフォーマンス?)を
知ったときです。
これは経済的価値と芸術品の価値に対する一種の問いだと思いますが、
当時の自分にはものすごく斬新で身震いしたのを覚えています。
これは例えば美しい風景や絵画、音楽を聴いたときとは違った感動の仕方ですが、
その後の自分の制作の考え方を一新してくれるものでした。
たくさんの価値観がある世の中ですが
とにかく今は自分がいいと思える作品を造るしかないのだぁと思います。
もし直接作品を見て頂ける機会がありましたら
そのときはよかったら恐らく近くにいると思うので声をかけてやって下さい。
若干人見知りですが、直接感想を
聞けるのは大変ありがたいと思っていますので。。
よろしくお願い致します。
相手のハンドルネームにも「さん」を付けましょう。
「さん」を付けないのは呼び捨て。
付けて呼ぶほどの相手じゃないと言う表現にとれます。
それと、出来れば行間は詰めてもらえるとスクロールが少なくて済みます。
「芸術家の糞」のお話、大変興味深く思いました。
パフォーマンスによる芸術ですか。
確かに、脳天を直撃するような衝撃です。
オノヨーコがレノンを射止めたことで有名な「天井の絵」も、パフォーマンス性の高い芸術ですよね。
これも、私にはどこがいいのかさっぱりわからん、だったわけですが^^;
パフォーマンスによるアートとは、私はこれまでの人生で全く向き合ってこなかったジャンルです。
前衛的な芸術は苦手で、見ようともしなかったのですが、目から鱗が落ちたところで、足を踏み入れてみようかと思いました。
HEAVENのお蔭で、こうして、作家の方と直接言葉を交わし、また一つ、新しい世界が開けたことをとも幸せに思います。
個展に行ったら、東間さんらしき方を探して感想を伝えようと思います。
でも、パンダとは名乗りませんよ。恥ずかしいから。
全銘柄爆騰しますように・・・・。
南無ぅ~ ( ̄人 ̄) ちーん
>裸族のひと | 157636 | さん
ご指摘ありがとうございます。
至らない点が多々あり、
申し訳ございません。
以後、気をつけます。
極楽パンダ | 157643 | さん
そうですね、僕もいつか直接お話できるのを楽しみにしています。
そのときはまたよろしくお願い致します。
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わかりやすい作品かつ趣がってとても面白いです。
どれが好みと聞かれれば二つ目が私の趣味。
またじっくりと見させていただきますね ^^