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2007.03.31 (Sat)

中国古代死刑大全 : 凌遅

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―中国経済網―
元記事の題名は、「中外古代死刑大全」。いにしえより中国および世界各国で施行されてきた極刑の数々についての解説です。とりたてて目新しい記述はありませんが、かの有名な「凌遅」についても解説されていましたので、ほかの資料もあわせ、もう一度あらためて。



十二、凌遅

さまざまな極刑をみてきましたが、最後にご紹介するのは、わが国独自の刑、凌遅です。
外国においても刀をもって人体を切り刻む刑罰はありましたが、聡明で叡智に富む中国人はこれをさらに研究し、芸術へと昇華させました。

凌遅が正式に採り入れられたのは、五代十国時代の遼朝ですが、これより以前、唐の時代にもさかんに行われていたという記述があります。よく知られているのは、唐代屈指の書道家、顔真卿の従兄、常山郡の太守でもあった顔杲卿が謀反を起こした安禄山に惨殺された(安史之乱)とき。歌(正気歌)にもうたわれている、落とされてもなおも安禄山を罵り続けたとされる「舌」のほか、体の肉を一片一片刀で削いだとされています。
また「宗史」の刑法志では、凌遅を「先断其肢體、乃絶其亢」と規定していましたから、一種の肢解刑とみなされていたのかもしれません。

世界上最残忍的死刑方式―凌遅

肢解の方法はといえば、それぞれの記述で異なりますが、たとえば舌を切断し、足先、また手の指先を寸断していくといった方法でしょうか。
たとえば「水滸伝」で、梁山泊の好漢、二挺の斧を振りまわす黒旋風の李逵が黄文炳を処する場面、あるいは楊雄が姦婦、潘巧雲に向かって、「一刀従心窩裏直割到小肚子下、取出心肝五臓,掛在松樹上――胸から下腹にかけてまっすぐに刀を入れると、五臓六腑を取りだし、松の木のうえに掲げた」という場面などからも当時の刑罰をうかがい知ることができます。

こうして行われてきた凌遅は明代に完成をみることとなります。皮下脂肪のほか骨は割り砕かれ、筋は断ち切られ、刑には長い時間がかけられるようになりました。
この時代に有名な凌遅の例としては、謀反の罪で捕らわれた宦官の劉瑾への処刑があげられます。処刑の様子は処刑当時、参与監刑だった張文麟の記述で詳細に語られています。

「劉瑾は肉を削がれはじめました。凌遅の刀数は3357刀です。10刀毎に休息が入り、大声で活が入れられます。初日は357刀でした。親指大の、皮をともなった肉片が胸部の左右から削がれていきます。肉に刀を入れると最初は少し血が垂れるのですが、肉を抉るときにはもう血はでません。これは恐怖で血が下肢や腹部などに滞ってしまい、削いだ後に胸をあけると大量の血が一気に噴き出すのだそうです。
夜になって順天府宛平県の監獄に護送された劉瑾は、ふた椀の粥をたいらげました。盗人たけだけしいとはこのことです。
翌朝、刑場の東側に移された劉瑾は、ふたたび肉を削がれはじめました。昨日、見物人に向かって宮中の内情を漏らしたため、口にはこまかく砕いた胡桃の殻が詰めこまれています。今日は数十刀入れられただけでしたが、劉瑾はそのまま息をひきとりました。
屍の解体が告げられます。生前、劉瑾の策謀で命を落とした者の家族が、削がれた肉の山に集まります。その肉片をもって死者への供物とするのです。家族のなかには生の肉を口に入れ、ゆっくりと咀嚼しながら恨みを解こうとする者もいます。
ややあって屍の胸に大斧が振り下ろされました。血が数丈噴き上がりました。

また、もうひとつ詳細が残っている例として、鄭蔓への処刑記録があります。
天啓2年(1622)、文官登用の難関、科挙を突破して官僚となった鄭蔓でしたが、派閥争いに巻き込まれ、母を打ち、妹を犯したという罪を着せられて凌遅の刑をいいわたされました。

鄭蔓への凌遅は、崇禎皇帝自らが執行を指示しました。聖旨は司局に下達され、官員らは鄭蔓を西市(のちの西四牌楼、現在の北京西)に護送しました。西市は刑場で、西牌樓では斬首がおこなわれ、東牌樓では凌遅がおこなわれることになっていたのです。
処刑当日、朝早くから、日よけのかかった小屋には刑の執行人らが詰めています。執行人はそれぞれ篭をもち、なかには鉤とよく研がれた小刀が入っています。大きな竹篭に入れられた鄭蔓が広場に運ばれてきました。頭巾は付けておらず、裸足です。鄭蔓は篭のなかで座ったまま、書生に先のことなどを細々指示しています。小刀をなおも研いでいた執行人らは鄭蔓の到着に気づくと篭を手に立ち上がりました。広場はすでに大勢の見物人が詰めかけ、立錐の余地もありません。
遅れて到着した西城察院の長官より、聖旨が読み上げられました。見物人たちのざわめきでほとんど聞きとれません。唯一聞こえたのは「法に照らして、削ぎ三千六百刀を命ず」という言葉でした。
号砲が三発とどろくと刑が執行されはじめました。その様子を見ようとする見物人は更に増え、広場をとりまく家々の屋根にまで鈴なりに人が乗っています。人の頭越し、肩越しには、処刑の実際はほとんど見ることが出来ないでしょう。こうしたことを知ってか、執行人らは竿の先に縄をはり、そこに鮮血したたる肺と肝臓を鉤で吊って見物人に晒します。
やがて切開された腹から五臓が取りだされて晒されると、次いで切断された頭部が竿に吊られて高く掲げられました。
刑の執行が終わったことが告げられました。と同時にズタズタに切り裂かれた鄭蔓の体が掲げられます。ほとんど皮の削がれた背中は筋の一端が切られて幾状もはね上がり、まるでハリネズミの背のように見えました。
手に紅旗をしたがえた校尉二人が馬に飛び乗り、刑の執行を終えたことを報告にいきます。
執行人らは切り終えた鄭蔓の肉を見物人に売りはじめました。人肉は疱瘡に効くと人々の間で伝えられていました。


凌遅は一般的には胸部より削刀されました。次いで二の腕、大腿部へと進みます。刀数をこなさなければいけないことから、受刑者の体を漁網できつく縛り、編み目から飛びだした肉塊を削いだ例もあったようです。いずれにしても執行人には高度な技術が要求されました。凌遅はこうして清朝末期まで続けられました。廃止されたのは1905年です。内外の批判、また世間の潮流に逆らえず、清朝は、梟首、戮屍などとともに凌遅の廃止を決め、斬首のみを極刑として法典に残すことにした次第です。

人肉を切り刻んで食用にするという観点からは、「閲微草堂筆記」を著した紀暁嵐がこんな話を伝えています。
頃は明朝末期、戦乱と飢饉におおわれていた中国では人肉の売買ならびに屠殺が公然とおこなわれていました。
一人の客人が飯店に昼飯を食べに立ち寄りました。ふと厨房を覗くとまな板の上に全裸の若い女が横たわっています。縄で縛られた女は血の気を失した顔でがたがたと震えていました。その様子をみて可哀想になった客人は、仕入れ値の倍を払うからと店主に告げ、この女を請け出しました。女は人妻ということでした。
厨房にはいり、縄を解き、服を着せるのを手伝った客人の手が、うっかり女の乳房にあたりました。女はキッと客人を睨むとこう言いました。
「あなたは私の命の恩人です。これからの一生を牛馬のごとくあなたに仕える決心でした。しかしたとえ奴隷になったとて、決してあなたの妻になることはありません。亡くした夫をさておいて、二夫にまみえることなど思いのほか。こうしてここまでたどり着いた私を、かように下賤に扱われるのならば、あなたの助けはいりません」
女は着けたばかりの服を脱ぐと、自分から再びまな板の上に横たわり目を閉じました。店主は首を振り、命あることばかりがすべての源と女の腿肉を削ぎはじめます。厨房には女の号泣がこだましました。客人の忸怩たる思いが消えることはありません。


HEAVEN 古代中国の酷刑  Turandot : Chinese Torture(画像など)

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