2006.11.04 (Sat)

ティナ・スモール物語(19)

61104d.jpg「こいつは競走馬じゃないんだ。 オーナーはアラブの金持ちなんだけど、こいつを世話する時間がないみたいだね。 それに設備も。 頼まれてウチで預かってる。 名前はアルサバさ」
アルサバと名付けられた馬は、馬房にじっと佇み、私たちが扉の前に立っても他の馬のようにものをねだろうとはしませんでした。

馬はこちらに顔を向けながらも私たちを見でもなく、どこか遠くに視線をさまよわせているようで、人間にたとえるならばまるで鬱病にかかっているかのようでした。 私はそれまでおよそ動物というものが、気持ちを沈ませることがあるなどとは考えもしませんでしたから、それなりに衝撃的な光景だったことを憶えています。
「彼は私たちのことをあまり歓迎してないみたいね」
私が言うと、マイケルさんは否定しました。
「いや。 正直言ってあいつがどうして塞ぎ込んでいるのかおれにもわからないんだ。 先週も獣医さんが来て一応診たんだけどね、どこも悪いところはなさそうだったし。 あいつがここに連れてこられたのは三週間前。 日課として朝の運動と午後の放牧は他の馬と変わらないけど、あの沈み込んだ表情だけは変わらないね。 心配だけど」
それまでになく饒舌なマイケルさんの言葉を聞いているうちに、私はこの馬のために出来る限りのことをしてやりたいという気持ちになりました。 その日の午後、ふたたび残りの鞍をサドルソープで洗っている間にも私の心を占めていたのはアルサバの存在だったのです。

午後のティータイムに、まだキチンと挨拶を交わしていなかったスリムな女性厩務員が近づいてきました。 ぎこちなく名をロウェーナと名乗った彼女は、ここに来て3ヶ月目になると話しました。
そばでよく見ると、髪は短いながらも顔つきはやさしく、細い肩がたしかに女性であることを覗わせます。 でも、もしかしたら彼女は生涯ブラのお世話になることはないかもしれません。 それほどまでに平らな胸でした。 どちらにしても彼女は同じ女性の厩務員ということで私を歓迎してくれましたし、私も私でいつでも部屋に遊びに来てと声をかけ、別れました。

夜はリビングでテレビを観ながら、置いてある馬の雑誌をながめて過ごします。 母に電話をいれ、衣類などの残りのものを家から送ってもらうよう請うと、母は私が仕事につけたことをたいそう歓んでいるようでした。 こうして初めて仕事に就いた最初の日を終えました。 疲れは感じず、満足感を覚えてベッドに横になった私は、またたく間に眠りに落ちていたようです。


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