2006.08.02 (Wed)
ティナ・スモール物語(11)
事件といえば、ちょうどこの頃、もうひとつ怖い思いをしたできごとがあります。私はといえば十四歳になったばかり。 当時、村には名前をビリー・モーリーという知恵遅れの男の子が住んでいました。 彼は私たちの間では 「能なしビリー(Billy the Brain)と呼ばれ、度を越した慇懃さが笑いの種になっていました。
ひとに会ったとき、帽子を脱いで深々と頭を下げ、「おはようございます、ご主人さま」 あるいは 「奥さま」 と言うのはまだいいのです。 ところが挨拶が終わると、泥だらけの手で相手の服のほこりを払おうとし、あまつさえポケットから薄汚れたハンカチを取りだしては相手の靴を磨こうとまでするのです。 試しにやられてごらんなさい。 イライラして悪態のひとつもつきたくなりますから。 罵られようが何をされようが、彼は慇懃な態度を崩しません。 帽子を手に持って恭しく詫びるだけです。
ある秋の夕べ、私は 「ネルソン卿」 という名のお隣の犬と連れだって田舎道の散歩を楽しんでいました。 犬種はアフガンハウンド。 自立心の強い性格ですから、普段は飼い主にも反抗的で常にリードを必要としていました。 ところが私にだけはよく懐き、まるで子羊のように従順だったのです(実際、子羊って従順だったかしら?)。 そこで私が散歩に連れ出した時には、よくリードを外してやりました。 「ネルソン卿」 のその時の歓びようといったら!
黄昏どきに風は凪いで、去りゆく夏が置きわすれていったような温みがあたりに漂っていました。 「ネルソン卿」 は草や灌木の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと歩を進める私の周りをつかず離れずについてきます。 ずっと続く平和な田園風景が今にも闇に溶け込もうとしていました。
ふと暗がりに人の姿が見えます。 続いて声が聞こえました。
「こんばんは、お嬢さま。 今夜はとってもよい加減でございますね」。
私は声の主を悟ってホッと安心しました。 ビリーです。 彼はいつもこんな馬鹿げた言い回しをするのです。 相手がビリーだとわかると私は関わりを避けるため、軽く会釈をして通り過ぎようとしました。
「おほう、これはこれは、立派な、その…、ものをお持ちで。 はて私がなんのことを指しているのかおわかりですね? それはとってもとってもエッチなものです」。
ビリーのこの口のききよう。 私は背筋にゾッとするものを感じながらも無視して行き過ぎようとしました。 すると彼は歩を早めて追ってきたのです。
「お嬢さま、私にその、エッチなものをお見せください。 なんというバカでかさだ! さあ、お見せ…」
私は心臓がドキドキするのを感じ、顔から血の気がひくのがわかりました。
「私はいま50ペンスを持ってて、それはママからもらったもので、あなたにあげてもよろしいですから…」
すでに二人とも走っていました。 彼の手が私の肩にかかり、気づいた時にはうつ伏せに転んでいました。 恐怖で体がいうことを利かず、叫ぶこともできませんでした。
その時です。 凄まじい吠え声が聞こえたかと思うと、続いて悲鳴が聞こえ衣を裂く音が耳に入りました。
「うわわわわわ、あっぢ行け! 来んな、あっぢ行け!」
ビリーの走っていく足音が地面に伝わり、遠ざかっていくのがわかりました。 闇の向こうにまだ途切れ途切れの悲鳴が聞こえます。 半べそをかきながらゆっくりと立ち上った私は、服に付いた泥をはらい、家路をたどり始めました。
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