2006.07.14 (Fri)
ティナ・スモール物語(9)
地下鉄の駅に通じる階段を下りた私は、壁に掲げられている路線図をみて、パディントンまでは一度の乗り換えですむことがわかりました。切符を求め、こわごわエスカレーターに足を踏み入れると急に視界がひらけ、ずっと下の方に下り口が見えます。 私は案内板を見落とさないように注意しながら、もうひとつエスカレーターを乗り継ぎ、長いトンネルを抜けてようやくプラットフォームにたどり着きました。 一、二分の後にトンネルの中からあらわれたシルバーグレイの車両がホームに滑り込み、私は目の前でひらいたドアから乗り込みました。
空いている座席に座って周りを見わたすと、私の乗った車両には若い男性が多いようでした。 右隣の男性をそっと盗み見ると口元に髭を生やし、すべての指に金の指輪をしています。 また左隣にはシャツのボタンを胸まではだけた男性が座っていました。 びっしりと覆われた胸毛のあいだに大きなメダルが提がっているのが目に入ります。
間もなく隣の駅に到着し、ドアがひらくとほとんどの乗客が降りていき、車両に残っているのは私の両隣の男性と、対面する端に座っている老夫婦だけとなりました。 私はといえば何故か怖れも感じず、膝に抱えていたバッグの中をなにか読むものでもないかとあらためていたのです。
電車が動きはじめると右隣の男性の手が私の背中にかかりました。 つとめて気づかない振りをしながら、取りだした雑誌に目を落とすと、今度は左隣の男性の手が私の腿に置かれました。 身を固くしながら視界の隅で男性を見やると、シャツをはだけた男性は口元から歯をのぞかせて暗い微笑を浮かべています。 この時にいたって私はようやく恐怖を覚えました。 救いを求めて老夫婦の方を見ましたが、二人はおしゃべりに夢中で私のことなど気に掛けてはいないようです。
「女ぁ、このあとどっかシケこまねぇ?」。
右の男性が私の胸を覗きこむようにして囁きます。 背中にまわした手は私の髪を弄びはじめ、恐怖で凍り付いた私は身じろぎひとつ出来ません。
そうこうしているうちに電車は減速をはじめ、両隣の男たちはいったん手を引きました。 駅に着き、空気が圧搾されるシュッという音とともにドアが開きます。 この駅では誰も乗ってこないようでした。 今しかない? 私は心のなかでカウントをし時間を見計らうと、閉まりかけたドアに向かって猛ダッシュしました。 なかばドアをこじ開けるようにしながら寸でのところで飛びだしたのです。 うまくいった? けれどもドアに引っかかったバッグは諦めざるをえませんでした。
息を切らせて立ちつくす私の目の前を、目を丸くしながら下卑た笑いを浮かべた二人が過ぎっていきます。 安堵と怒り、それに汚されたと感じた私は思わず目に涙を浮かべていました。 もっていかれたバッグのなかには母からもらったお金と地下鉄の切符も入っていたのです。 私は途方に暮れて出口に向かいました。
まずは大きな黒人の駅員に切符をなくした訳を説明しなければなりませんでした。 彼はこう言ったものです。
「お嬢ちゃん? ひとりで乗ってきたのかい? お家はどこ?」
なかば放心状態だった私に、彼は警察を呼んだほうがいいと判断したようでした。 まもなく警官が到着し、私は駅長室に連れていかれ、名前や住所を訊かれて母にも連絡がいきました。 私の拙い説明から事件性はないと判断されたのでしょう。 新しい切符とともに、警官の、知らない人には話しかけられても相手にしちゃダメだよとの言葉をもらって再び電車に乗ってパディントン駅に向かいました。
ホームには母が迎えに来てくれていました。
母は約束を破った私を叱るでもなく、こう言いました。
「わかったわ、ティナ。 もう何も言わなくてもいいから。 大丈夫よ。 さあ、お家に帰りましょう」。
私は泣き崩れるように母の胸に飛び込みました。 こうしてロンドンへの旅は終わりました。
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